ロシアによるウクライナ侵攻から1年以上が経過しました。ウクライナへの軍事侵攻 *1 に関してプーチン大統領はあれこれと大義名分を掲げていますが、もう少し時間を遡って歴史を眺めてみると、別の側面が見えてきます。
ポーランド・ソビエト戦争
第一次世界大戦が終わった後の 1919 年 2 月から 1921 年 3 月にかけてポーランドとボリシェヴィキ政府 *2 の間で行われた戦争が「ポーランド・ソビエト戦争」です。
第一次世界大戦直後のパリ講和会議により、ロシアによる支配から独立を果たしたポーランドは、国土を分割される前の領土(かつてのポーランド・リトアニア共和国の領域など)を回復すべく、ロシアでの内戦の混乱に乗じてウクライナ、ベラルーシ西部、ポーランド東部への侵攻を行いました。
ウクライナ人民共和国軍の参戦
この戦いには、赤軍に首都を奪われてポーランドに亡命していたウクライナ人民共和国のペトリューラの軍もポーランドに呼応して参戦していました。
ペトリューラがポーランドとの共同戦線を張る際に「ウクライナ人民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認める」という協定を結んでいたのですが、残念ながらこの協定は果たされることなく、パリに亡命したペトリューラは、1926年5月24日、無政府主義者のユダヤ人宝石商のシュワルツバルトによって暗殺されました。
ワルシャワの戦い、ヴィスワ川の奇跡
1920 年に入ると、ソビエト軍の反撃によってポーランド軍はワルシャワ近郊まで押し戻されてしまいますが(ワルシャワの戦い)、ポーランド軍の奮戦によって最終的にソビエト軍は敗退することになります(ヴィスワ川の奇跡)。
ベラルーシ、ウクライナ西部をポーランドに割譲
その後、ポーランド軍がベラルーシの首都ミンスク近郊まで進撃するにいたり、ソビエト政府は和平を提案、1920 年 10 月 12 日にポーランド政府とロシア・ソビエト政府、ウクライナ・ソビエト政府の間で停戦条約(リガ条約)が締結されました。*3
この条約により、軍事的敗北を喫したソビエトはポーランドにベラルーシおよびウクライナの西部(ガリツィア)を明け渡しましたが、それと引き換えにポーランドはウクライナ・ソビエト政府をウクライナの代表政府として認めざるを得なくなりました。
独ソ不可侵条約と秘密議定書
1939年8月23日にドイツのヒトラーとソ連のスターリンの間で調印された独ソ不可侵条約には「秘密議定書」と呼ばれる秘密協定がありました。
その内容は、両国でポーランドを分割する、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が併合するというものでした。
独ソ両国によるポーランド侵攻と領土分割
1939 年 9 月 1 日にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連はこの秘密協定に基づき 1939 年 9 月 17 日にポーランドに侵攻を開始しました。
独ソ両国による軍事作戦が 1939 年 10 月 6 日に終結すると、ポーランドの全領土は分割され、それぞれドイツとソ連に併合されました。
ポーランド侵攻に関するソ連の大義と現実
ソ連のポーランド侵攻は、ソビエト=ポーランド戦争でポーランドに割譲したウクライナなどのロシア人居住地を奪回するという名分のもとに行われました。
その後、ソ連の軍事占領下におかれた 1,350 万人余りのポーランド国民は、秘密警察の監視下で行われた擬似選挙によりソビエト連邦の市民とされました。また、軍や政府の高官は逮捕され、裁判を経ずに処刑されるなど激しい弾圧が行われました。
大義なきバルト三国併合
さらに、ソ連は 1940 年 8 月にバルト三国を併合しました。なお、バルト三国併合は独立した主権国家に対する領土的野心を満たすための大義の無いものであったことを、ゴルバチョフ政権下のソ連自体が認めています。