pepe’s blog

雑多な趣味に関して深く浅く広く狭く語るブログです。

ポーランド、ロシア、ウクライナの関係

ロシアによるウクライナ侵攻から1年以上が経過しました。ウクライナへの軍事侵攻 *1 に関してプーチン大統領はあれこれと大義名分を掲げていますが、もう少し時間を遡って歴史を眺めてみると、別の側面が見えてきます。

ポーランドソビエト戦争

第一次世界大戦が終わった後の 1919 年 2 月から 1921 年 3 月にかけてポーランドボリシェヴィキ政府 *2 の間で行われた戦争が「ポーランドソビエト戦争」です。

第一次世界大戦直後のパリ講和会議により、ロシアによる支配から独立を果たしたポーランドは、国土を分割される前の領土(かつてのポーランド・リトアニア共和国の領域など)を回復すべく、ロシアでの内戦の混乱に乗じてウクライナベラルーシ西部、ポーランド東部への侵攻を行いました。

(左)1919年3月の勢力範囲 (右)1919年12月の勢力範囲

ウクライナ人民共和国軍の参戦

この戦いには、赤軍に首都を奪われてポーランドに亡命していたウクライナ人民共和国ペトリューラの軍もポーランドに呼応して参戦していました。

ペトリューラがポーランドとの共同戦線を張る際に「ウクライナ人民共和国ウクライナを代表する唯一の政府として認める」という協定を結んでいたのですが、残念ながらこの協定は果たされることなく、パリに亡命したペトリューラは、1926年5月24日、無政府主義者ユダヤ人宝石商のシュワルツバルトによって暗殺されました。

シモン・ヴァシーリイェヴィチ・ペトリューラ

ワルシャワの戦い、ヴィスワ川の奇跡

1920 年に入ると、ソビエト軍の反撃によってポーランド軍ワルシャワ近郊まで押し戻されてしまいますが(ワルシャワの戦い)、ポーランド軍の奮戦によって最終的にソビエト軍は敗退することになります(ヴィスワ川の奇跡)。

(左)1920年8月の勢力範囲 (右)1920年以降の国境

ベラルーシウクライナ西部をポーランドに割譲

その後、ポーランド軍ベラルーシの首都ミンスク近郊まで進撃するにいたり、ソビエト政府は和平を提案、1920 年 10 月 12 日にポーランド政府とロシア・ソビエト政府、ウクライナソビエト政府の間で停戦条約(リガ条約)が締結されました。*3

この条約により、軍事的敗北を喫したソビエトポーランドベラルーシおよびウクライナの西部ガリツィア)を明け渡しましたが、それと引き換えにポーランドウクライナソビエト政府をウクライナの代表政府として認めざるを得なくなりました。

リガ平和条約後の中央・東ヨーロッパ

独ソ不可侵条約と秘密議定書

1939年8月23日にドイツのヒトラーソ連スターリンの間で調印された独ソ不可侵条約には「秘密議定書」と呼ばれる秘密協定がありました。

その内容は、両国でポーランドを分割する、バルト三国エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニアベッサラビアソ連が併合するというものでした。

独ソ両国によるポーランド侵攻と領土分割

1939 年 9 月 1 日にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連はこの秘密協定に基づき 1939 年 9 月 17 日にポーランドに侵攻を開始しました。

9月14日からの戦いの経過。ソ連軍は9月17日にポーランド侵攻を開始。

独ソ両国による軍事作戦が 1939 年 10 月 6 日に終結すると、ポーランドの全領土は分割され、それぞれドイツとソ連に併合されました。

(左)ポーランド侵攻後に握手を交わす独ソ両軍の将校
(右)共同勝利パレードで閲兵するソ連赤軍のクリボシェインとドイツ軍のグデーリアン

ポーランド侵攻に関するソ連大義と現実

ソ連ポーランド侵攻は、ソビエトポーランド戦争でポーランドに割譲したウクライナなどのロシア人居住地を奪回するという名分のもとに行われました。

その後、ソ連の軍事占領下におかれた 1,350 万人余りのポーランド国民は、秘密警察の監視下で行われた擬似選挙によりソビエト連邦の市民とされました。また、軍や政府の高官は逮捕され、裁判を経ずに処刑されるなど激しい弾圧が行われました。

大義なきバルト三国併合

さらに、ソ連は 1940 年 8 月にバルト三国を併合しました。なお、バルト三国併合は独立した主権国家に対する領土的野心を満たすための大義の無いものであったことを、ゴルバチョフ政権下のソ連自体が認めています。

脚注・コメント

*1:当初は特別軍事作戦と呼んでいたのに、最近は平然と戦争と呼ぶようになりましたね。

*2:当時はまだソ連ではなくロシア共産党ボリシェヴィキ)による一党独裁政府でした。ソビエト連邦が成立したのは 1922 年とされています。

*3:リガ条約の発効は 10 月 18 日。

ブリュースターボディシールド

ブリュースターボディシールド(アメリカ陸軍)

ブリュースターボディシールド ( Brewster Body Shield ) は、アメリカのガイ・オーティス・ブリュースター博士によって米国陸軍のために設計されたボディアーマーです。兵士を小火器による攻撃から守るための大きな盾形のボディプレートと重いヘルメットから構成される着脱可能な鎧で、オプションでレッグアーマーも用意されていました。

ボディのアーマープレートはショルダーバックルで固定されており、ダンパークッションも付いていました。また、ヘルメットには調整可能なアイシールドが装備されていました。鎧の厚さは5.5mm(0.21インチ)で、重量は 11 ポンド(5.0 kg)ありました。

1917年 4月には、この鎧を装着したブリュースター博士自身が機関銃の前に立って、博士に向けて数発の銃弾を発射するというテストが行われました。テストは成功し、ブリュースター博士によれば、機関銃の発砲の衝撃は、ハンマーで打たれたときに経験した衝撃の 10 分の 1 に過ぎないとのことでした。

ただし、実際にはブリュースターボディシールドには重大な欠点がありました。それは重く、兵士の動きをひどく束縛していたことです。このため、ブリュースターボディシールドが戦場で大規模に使用されたという記録は残っていません。

レッグアーマー付きのボディーシールド

シングルピースヘッド-レッグアーマー付きトルソブリュースターボディシールド。

ブリュースターボディシールドのキット

ICM からブリュースターボディシールドのキットが発売予定です(発売時期は未定)されました。

他国のボディアーマーのキット

イタリア陸軍のボディアーマー

第一次世界大戦イタリア軍に設立された “death companies” のキットです。志願兵によって編成されたこの突撃部隊の目的は歩兵部隊への道を開くことで、特別なアサルトヘルメット、シールド、胸甲などを装備していました。この部隊は 1916 年まで存在していました。

ドイツ陸軍のボディアーマー

第一次世界大戦中、機関銃や速射砲による攻撃から兵士を保護するために多成分鋼で作られたボディアーマー(Grabenpanzer)が開発され、1916 年の春から配備が開始されました。これらの重量は約 10 kg に達し、装甲の厚さは約 3 mmでした。構造はストラップで接続された4つのプレートで構成されており、これにより鎧にある程度の可動性が与えられました。Grabenpanzer は、ピストルの弾丸や発射体の破片、ライフルから発射された弾丸から保護するのに非常に効果的でした。この鎧の生産は戦争が終わるまで続き、一説では 50 万セットが生産されたと言われています。

脚注・コメント

フォルクスワーゲン Typ 1 系列

フォルクスワーゲン Typ 1 系列

フォルクスワーゲン Typ (英語表記では Type、ドイツ語読みでは「テュープ」)について、Typ 1 系列のバリエーションを簡単にまとめてみました。

Typ 1

Typ1 は、一般にカブトムシ または ビートルと呼ばれているモデルで、ヒトラーの「国民車構想」に基づいてフェルディナント・ポルシェ博士が設計・開発を担当しました。Typ 1 は 1938 年~ 2003 年まで生産され、その総生産台数は 2152 万 9464 台と言われています。

プロトタイプ V303(セダン、サンルーフ、カブリオレの3種類) を観たヒトラーがこの車両を KdF-Wagen 命名したこともあって、この形状のボディは KdF と呼ばれることがあります。

Typ 82

最も有名な軍用フォルクスワーゲン タイプ82、通称:キューベルワーゲン。なお、キューベルワーゲンとはバケツ型(石炭バケツ型)車両全般を指すもので、フォルクスワーゲン以外にもキューベルワーゲンと呼称される車種があります。

製造年:1940年
生産台数:50,515両
排気量: 985cc、1943年から:1130cc、25hp

Typ 86

4輪駆動タイプのキューベルワーゲン。シャーシは Typ 62(Typ 82 以前のプロトタイプ)を使用しています。

製造年:1940年
生産台数:3両
排気量: 1085cc、27.5 hp

(写真左) Typ 86、(写真右) Typ 62

Typ 87

Typ 82 ベースの4輪駆動車。

製造年:1940年
生産台数:4両
排気量: 1085cc、27.5 hp

Typ 92 ( = Typ 82E, Typ 877 )

Typ 82 のシャーシに KDF ボディを載せたもの。2台が外務省に納められて非軍事任務に充てられ、残りはアフリカ軍団や SS で使用されました。 なお、Typ 82E は戦後も Typ 51 の名称でしばらく生産が続けられました。

製造年:1941年
生産台数:564両
排気量: 985cc-1131cc

Typ 92 ss

Typ 92 のうち、SS に納められたものは Typ 92 ss という型番で区別され、インテリアが変更されて銃器を固定するためのフック等が配置されています。

Typ 98

Typ 128 のシャーシに KDFボディを載せたもの。残念ながら写真は見つかりませんでした。「Typ 86 のシャーシ(4×4)にロールアップルーフ付き」とする解説もあって、実態はよくわかっていません。4輪駆動タイプであることは間違いなさそうですが。

製造年:1943年
生産台数:3両
排気量: ?

Typ 128、Typ 138

水陸両用タイプ。Typ 138 は軽量化を試みたタイプでほとんど違いはありません。

製造年:1941年
生産台数:130両
排気量:1131cc

Typ 129

渡海および潜航をするために開発された試作車両。ボディ全体が鋼板で覆われています。

製造年:1941年
生産台数:1両
排気量:1131cc

Typ 155

ハーフトラックタイプのキューベルワーゲン。テストモデルが7種類作られました。

製造年:1942年
生産台数:7両
排気量:895-1131cc

Typ 155-0

Typ 155-1

Typ 155-2

Typ 155-3a

Typ 155-4a

Typ 155-4b

Typ 155-4c

Typ 157

Typ 82 を線路上を走行できるようにしたもの。タイヤの後ろに金属製ディスクが装備されています。

Typ 166

いわゆるシュビムワーゲンTyp 128/138 に比べてホイールベースが短く(240cm から 200 cm に短縮)なっています。

製造年:1942年
生産台数:14,283両
排気量:1131cc

写真右は雪上走行用装備を装着した Typ 166。

Typ 276

重量のある大砲を牽引するために Typ 82 のリアパネルを強化したものです。

製造年:1944年

Typ 283

Typ 82 の木炭エンジン仕様車。

製造年:1944年

Typ 287

Typ 92 の4輪駆動タイプ。シャーシはキューベルワーゲン。オープントップが特徴。

製造年:1943年
生産台数:546両
排気量:1131cc

Typ 82/2 ( Typ 822 とする文献もあり )

詳細不明。後部座席に巨大なサイレンが設置されています。

製造年:1940年
排気量:985cc-1131cc

Typ 82/3 ( Typ 823 とする文献もあり )

Typ 82 の変種。Panzerattrape。偽装戦車。

製造年:1940年
生産台数:2両
排気量:985cc-1131cc

 

下の写真は Typ 82 にハリボテの装甲を被せたロンメルの偽戦車。Typ 82/3 とは別物の現地改修車両です。

 

この写真も現地改修っぽいですが詳細は不明です。

【補足資料】Typ 一覧

  • Type 62: Prototype Kübelwagen, constructed from 15 May 1938; pre-production models (1939) field tested in the invasion of Poland
  • Type 67: 2-stretcher ambulance; Type 60 Beetle chassis with modified Type 82 body
  • Type 82/0: Basic, standard four seater
  • Type 82/1: Three-seater; usually radio car
  • Type 82/2: Sirencar (Siemens motor-driven siren mounted on passenger side in place of the rear seat)
  • Type 82/3: Mock-up scout car / armoured vehicle, incl. gun-turret atop cabin – for decoy and training purposes
  • Type 82/5: Kübelwagen chassis, with Type 60/LO[note 2] Pritschenwagen (Beetle pickup-truck) body.[12]
  • Type 82/6: "Tropenwagen": Kübelwagen chassis, with Beetle panel-van / box-van body
  • Type 82/7: Three-seat 'Command car': a Type 82 chassis, fitted with a Beetle body and roll-up canvas roof section. These three-seaters had a single rear seat behind the driver, and a co-driver's seat with fully reclining backrest for a commanding officer.
  • Type 82/8: Like regular open Type 82/0 Kübelwagen, but with body made of wood, to save on scarce steel resources
  • Type 82/E:[note 3] "Geländekäfer": Kübelwagen chassis with Beetle body (688 manufactured)
  • Type 86: Four-wheel drive (six prototypes made)
  • Type 87: "Kommandeurwagen": a Type 86 4WD Kübelwagen chassis with Beetle command car body. Fitted with running boards, under-hood-mounted spare tire (accompanied by a gas can, a jack, a small tool kit, and a shovel), and widened fenders for its larger-diameter Kronprinz (Crown Prince) off-road tires. Some were provided to high-ranking officers, who could push through virtually any kind of terrain with them. (667 produced)[13][14]
  • Type 89: Fitted with experimental automatic transmission
  • Type 92/LO:[note 2] deprecated — from April 1943 known as Type 82/5 [15]
  • Type 92/O: "offen": Kübelwagen chassis, with Type 60/O (Beetle convertible) body
  • Type 92/SS: (until April 1943): with interior attachments for fire-arms — from April 1943 deprecated, and known as Type 82/E [15]
  • Type 98: Beetle body with roll-up roof, on the Type 86 Kübelwagen 4×4 drive train
  • Type 106: Fitted with an experimental transmission (assumed different from the Type 89)
  • Type 107: Fitted with a turbocharger
  • Type 115: Fitted with a supercharger
  • Type 126: Fitted with a fully synchronized gearbox (assumed different from the Type 278)
  • Type 155/1: Half-track / snow-track Kübelwagen prototype. Pictures of several track-set designs exist,[16] although it is possible, that these were consecutively fitted to the same prototype. Trials proved, that the Type 155 was able to cover the most difficult terrain, but the modifications necessary to the standard Kübelwagen were extensive and the resulting vehicle was both very slow and forbiddingly inefficient.
  • Type 157: Railway car equipment, used for Types 82 and 87
  • Type 164: Six-wheeled, twin engine, dual-control prototype; never entered production
  • Type 177: Fitted with a five-speed transmission (as opposed to the standard four-speed unit)
  • Type 179: Fitted with fuel-injected Volkswagen engine
  • Type 179-F: Later updated directly to the Schwimmwagen (mentioned above)—Could cross water and temporarily be used as a small boat and/or landing craft. Because of a thick and bulletproof skid plate, the engine was protected and all valves in the rear were airtight. The engine had a flush-activated 179 fuel injected engine, that would act as a drainer to push water out and prevent the engine from flooding.
  • Type 198: Fitted with a PTO and auxiliary gearbox for starting the engines of armoured fighting vehicles[17]
  • Type 235: Fitted for power by an electric motor
  • Type 239: Fitted for power by a wood-gas generator mounted on the nose (also listed as Type 230)
  • Type 240: Fitted for power by bottled gas
  • Type 276: "Schlepperfahrzeug": Type 82 fitted with a towing hook to pull a 3.7 cm 'PaK 36' gun[18]
  • Type 278: Fitted with synchronized gearbox
  • Type 307: Fitted with a heavy-duty carburetor
  • Type 309: Prototype fitted with a diesel engine
  • Type 331: Prototype fitted for power by a "native fuel system" (acetylene gas) engine (also listed as Type 231)
  • Type 332: Fitted for power by anthracite coal

【蛇足】フォルクスワーゲン Typ 2

Typ 2Typ 1 をベースにリアエンジン・リアドライブの商用向け汎用自動車として開発されました。最初のモデル T1 が登場したのは 1950 年です。

フォルクスワーゲン Typ 1 系列の 1/35 スケールキット

KdF タイプ

Typ 82 キューベルワーゲン

Typ 166 シュビムワーゲン

Typ 128 シュビムワーゲン

商品リンク

[asin:B09QCXH1CY:detail]

脚注・コメント

GAZ-67 / GAZ-67B とプラモデル

GAZ-67 シリーズとは

GAZ-67 ( ГАЗ-67 ) は、旧ソビエト連邦 ( ゴーリキー自動車工場、GAZ ) で開発された 4×4 輪駆動の小型軍用車両です。

GAZ-64

アメリカで開発されたバンタム 40 BRC *1 を参考に GAZ-64 が開発・生産されました。 GAZ-64 は 1941~1942 年に 646両が生産されています。GAZ-67 はこの GAZ-64  を改良したものです。

American Bantam Car Co.は 1941年初頭に 2,675 台の 40 BRC を米陸軍に納入したが、正式採用には至らず、その大半はレンドリース法により英国やソ連に貸与された。

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GAZ-67 の前身にあたる GAZ-64。バンタム 40 BRC を参考に開発され、1941年3月から1942年夏にかけて 646 両が生産された。

GAZ-67

GAZ-67 は 1943 年 9 月に生産が開始され、生産台数は 計 3,137 両 (1943 年に 718 両、1944 年に 2,419 両 ) でした。

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GAZ-67。1943 年中に 718 両、1944 年に 2,419 両の計 3,137 両が生産された。タミヤにはこれをキット化して欲しかった。

GAZ-67B

1944 年 1 月からは改良型の GAZ-67B の生産が開始されました。GAZ-67B は 1945 年 5 月 9 日までに 1,714 両が生産されました。GAZ-67B の生産は大戦終了後も継続され 1953 年までに計 92,843 両が生産されています。

GAZ-67 シリーズの初期タイプではラジエーターグリルガードが 10 本の金属棒を並べて溶接した構造であるのに対して、後期タイプでは1枚の金属板をプレスして7個の長穴を打ち抜いた構造になっており、GAZ-67B についてはそれぞれ戦中型戦後型と呼ばれています。

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戦中型の GAZ-67B。ラジエターグリルが棒状になっている。1944年1月~1945年5月9日までに 1,714 両が生産された。

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戦後型の GAZ-67B。ラジエーターグリルがプレスによる簡易型になっている。

【付録】GAZ-64 プチ写真集

GAZ-67 の前身にあたる GAZ-64戦場写真で観られるのはほとんどが GAZ-67/67B ではなく GAZ-64 なのです。キット化して欲しいアピールで写真を掲載しておきますw

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Gaz 64 pigmey 1941 (Prototype Car)

youtu.be

GAZ-67 シリーズのキット

タミヤGAZ-67B のキットは、1/35 スケールのものは一般に「戦後型」と呼ばれるタイプで、これに対して 1/48 スケールのものは「戦中型」と呼ばれるタイプになっています。主な違いはラジエターグリルが棒状のものか、プレスによる簡易型かですが、生産台数は合計で 92,843 両、そのうちの戦中型はたったの 1,714 両に過ぎません。 ちなみに、大戦中に作られた GAZ-67 の生産台数は 3,137 両です。どちらかというと WWII マニアとしては GAZ-67 をキット化して欲しかったです(苦笑)。

GAZ-67

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AER の 1/35 は GAZ-67。

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中身は AER。

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マケットのリニューアル版は GAZ-67 表記。中身は不明(AER/MSDの予感w)

GAZ-67B 戦中型

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タミヤの MM 1/48 は GAZ-67B の戦中型。

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トランぺッター 1/35 は戦中型。

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マケット 1/35 は戦中型。

GAZ-67B 戦後型

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タミヤの MM 1/35 は GAZ-67B の戦後型。

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どう見ても GAZ-67B の戦後型なんですけどw

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Eastern Express 35009 は戦後型。

タミヤの GAZ-67B を改造するパーツ

Passion Models からタミヤの 1/35 GAZ-67B 戦後型 GAZ-67 初期型 ( GAZ-67 または GAZ-67B 戦中型 ) に改造するアフターパーツが発売されました。タミヤのキットそのものが古いキットで考証的におかしなところも多いので、それを改修するためのアフターパーツも併せて発売されています。これらのパーツを使用することで念願の GAZ-67 初期型を作製することができます。

[Passion Models] GAZ67 3Dパーツセット (P35T-012)

[Passion Models] GAZ67B ディティールアップセット (P35-170)

・・・というか、こんな苦労や追加出費をしなくても済むようにタミヤにはリニューアルキットの販売をお願いしたいんですけどねー。できれば GAZ-64 もラインナップに加えてもらう感じで。

商品リンク

タミヤ 1/35 スケール(販売価格高騰のため注意)

[asin:B09ZB2381L:detail]

タミヤ 1/48 スケール

その他

脚注・コメント

*1:BRC-40 と表記している資料も多いのですが、本稿では 40 BRC の呼称で統一しました。

日本陸軍の幻のタイガー戦車

今回のテーマは、第二次大戦において日本陸軍がドイツのタイガー戦車(以降、ティーガーⅠと呼ぶ)を購入していたという実話。

ティーガーⅠを試運転中の日本軍士官(ドイツ駐在武官・石出大佐)

日本陸軍ティーガーⅠを購入していた

1943年(昭和18年)、駐独大使・大島浩(元陸軍中将)がドイツ陸軍兵器局と交渉し、同年10月、「ティーガーⅠ」新造車両1台(8.8cm砲弾、機銃弾、無線機、光学装置、整備工具など含む)と設計図一式および組立説明図を645,000ライヒスマルク(当時の日本円換算で約110万円 *1)で購入することが決定されました。

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ドイツ陸軍兵器局と交渉にあたった駐独大使・大島浩(元陸軍中将)

東部戦線においてティーガーⅠを視察する小松少将(ベルリン駐在武官)。1943年5月7日撮影。

ティーガーⅠの主砲を観察する日本軍士官

運転技術習得のため派遣された戦車兵(士官)

射撃訓練を見学中の日本軍士官

88mm砲の威力を見学中の日本軍士官

机上演習の説明を受ける日本軍士官

購入したのはティーガーⅠだけではなかった

このとき購入した戦車はティーガーⅠを含む以下の4両でした。

パンターを視察中の日本軍士官(ドイツ駐在武官・石出大佐)

戦況の悪化で届かなかったティーガー

日本側は国策会社「昭和通商」を通じて代金を支払いましたが(ヘンシェル社による入金確認は1944年2月28日)戦況悪化で輸送不可能となったため、この日本向けティーガー ( シリアルナンバー FG250455 )はドイツ陸軍が貸与という形で使用することとなり、結局ベルギーで編成中だった「第101 SS重戦車大隊」へ供給されました。

関連動画

www.youtube.com

【おまけ】コミック「ハッピータイガー」のモデル

日本軍のタイガー戦車と言えば、小林源文さんのコミック「ハッピータイガー」が有名です。この漫画に登場するティーガーⅠには車体に上下逆さの「福」文字が描かれています。

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「ハッピータイガー」ではティーガーⅠの車体に上下逆さの「福」文字が描かれています。

実はこのティーガーⅠにはモデルとなった車両が実在します。ハッピータイガーのモチーフになったのは、第2SS装甲擲弾兵師団「ダス・ライヒ」に所属するティーガーⅠで、上下逆さの「福」は「倒福」と呼ばれる中国の招福の印です。この印は横浜の中華街でも見掛けることができます。

小林源文さんの漫画「ハッピータイガー」のモチーフになった車両。第2SS装甲擲弾兵師団「ダス・ライヒ」所属。

【参考】倒福

chugokugo-script.net

商品リンク

プラモデル

資料

ハッピータイガーについて

脚注・コメント

*1:現在の日本円に換算すると約22億円(労働力換算で11億円とする説もあり)に相当。

SAS(Special Air Service、特殊空挺部隊)のユニフォームとエンブレム

SAS のユニフォーム

SAS のユニフォームを見ると左胸に SAS Wings と呼ばれるエンブレムが付いています。

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北アフリカ戦線における SAS 隊員のユニフォーム。左胸に SAS Wings のエンブレムがあります。

また、将校用の制帽やベレー帽に付いているバッヂも一般の英国陸軍のものとは異なります。

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左胸の SAS Wings の他に、制帽(ベレー帽を含む)に SAS のバッヂが付いています。

SAS 固有のエンブレム

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制帽用バッヂ、SAS WIngs エンブレム、肩章(SAS ロゴ入り)の実物。

SAS Wings

SAS Wings は年代や国(英国以外にも SAS は存在します)によって微妙にデザインが異なるようです。

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右のエンブレムは翼が跳ね上がっているデザインになっています。

左胸に SAS Wings のエンブレムが見えます。拡大してご覧ください。

上の写真のカラー版(着色と思われます)

制帽のバッチ

帽子のバッヂには ”Who Dares Wins” の刺繍が入っています。これは SAS がモットーとしているフレーズで「敢えて挑むものが勝つ!」という意味です。SAS創始者デビッド・スターリンが中世アラビアのおとぎ話(Tales of the Marvellous and News of the Strange )から引用したものだと言われています。

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右のバッヂは色が褪せているようで、元は青かったのではないかと思われます。

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帽子のバッヂをイラスト化したもの。SAS がモットーとしているフレーズ ”Who Dares Wins” の刺繍が入っています。
制帽に SAS のバッチ、左胸に SAS Wings のエンブレムがあります。

関連記事

pepeprism.hatenablog.com

pepeprism.hatenablog.com

商品リンク

プラモデル

写真集・資料

”Who Dares Wins” の引用元の中世アラビアのおとぎ話

脚注・コメント

LRDG(Long Range Desert Group、長距離砂漠挺身隊)

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LRDG とは

LRDG(Long Range Desert Group、長距離砂漠挺身隊)は、第二次世界大戦中に編成されたイギリス陸軍の特殊部隊です。LRDG を補給部隊とする解説記事が散見されますが実際には戦闘部隊(偵察・襲撃部隊)です。

LRDG は偵察警備や諜報作戦のための部隊として組織されましたが、砂漠での行動に長けていたので、SAS(Special Air Service、特殊空挺部隊 *1)の道案内なども行っていました。LRDGSAS の補給部隊のように扱われているのは、これが原因ではないかと思われます。

ちなみに、LRDG の前身にあたる LRP(長距離巡視隊)が創設されたのが 1940年6月(創設者はラルフ・アルジャー・バグノルド少佐)、SAS の前身の特殊空挺旅団L分遣隊が創設されたのが 1941年(デイヴィッド・スターリングによる SAS の創設は同年11月)なので、LRDG のほうが1年半ほど先に活動していたことになります。LRDG SAS の補給部隊とする解説はこの点からもおかしな話です。

指揮官

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LRDG の創設者にして最初の指揮官、ラルフ・アルジャー・バグノルド。1941年8月までLRDGの指揮官を務めた。本職は砂漠探検家・地質学者。
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ガイ・レノックス・プレンダーガスト中佐、1941年11月から1943年10月までLRDGの指揮官、1944年から1945年までSASの副司令官を務めた。右の写真は右側がプレンダーガストで左側が次の指揮官となるイーソンスミス。
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ジョン・リチャード・イーソンスミス中佐、1943年10月から11月まで LRDGの指揮官。1943年11月16日 ギリシャ・レロス島の戦いで戦死。享年34歳。

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デイヴィッド・ロイド・オーウェン、本職は作家。1943年末から1945年8月までLRDGの最後の指揮官を務めた。1944年9月 アルバニアに夜間パラシュート降下をした際に峡谷に落下して背骨にひどい損傷を受けるも終戦まで従軍、戦後も軍人として各地を転戦した。

部隊編成

長距離巡視隊の傘下には "R"、"T"、"W" の3つの部隊があり、"T"と"W"が戦闘部隊、"R"は援護部隊でした。その後、再編成されて長距離砂漠挺身隊と名称変更されると "G"、"S"、"Y" の3つの部隊が追加されました。(さらにその後、部隊が増えています。)

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この写真は2つの巡視隊(左が "Y"巡視隊で戦闘部隊、右が"R"巡視隊で援護部隊)が砂漠で遭遇したところを撮ったもの。戦闘部隊と援護部隊の装備の違いがわかると思います。

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この写真は "R" 巡視隊のシボレー(Chevrolet WA 4x2 30-cwt truck)です。

"R"巡視隊と"T"巡視隊はニュージーランド兵部隊で、それぞれボンネットにマオリ語の地名などの名称とマーク(マオリの首飾り、キーウイ鳥)が付けられていました。 "G"巡視隊と"Y"巡視隊はイギリス兵部隊、"S"巡視隊はローデシア兵部隊、その他に一時的にインド軍部隊("J"巡視隊、"R"巡視隊、"M"巡視隊、"S"巡視隊)などが編成されています。

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写真は指令部門の標章(ルイーズ)が付いたシボレーです。

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"R1"巡視隊のシボレーの車列。部隊記章のマオリの首飾り(ヘイティーキ)がボンネット上に見えます。

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マオリの首飾り「ヘイティキ」の実物。

スナップショット

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休憩中

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閲兵中なので服装もきちんとしていますw

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1941年3月クフラの砦の前で撮影。

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1941年3月撮影。

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砂漠での我が家w

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一時休憩所w

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地元民と記念撮影。

車両

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お馴染みのシボレー 1533x2 , 30-cwt, 4x2

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Chevrolet 1311x3 "Indian Pattern" Pilot Car, 15-cwt, 4x2

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Ford F30, 30-cwt, 4x4

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Ford F30, 30-cwt, 4x4(2連装ビッカースK機関銃搭載)

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Ford F60L CMP

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フォード01 V8 15-cwt 4x2

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トラック以外にジープも使用されています。写真は "G"巡視隊のウイリスMBです。

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”Y"巡視隊のウイリスMB。

武装・装備

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”T1"巡視隊のシボレー。ルイス機関銃とイタリア軍から鹵獲したブレダ機銃を装備。

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”T1"巡視隊のシボレー。2連装ブローニング機銃を2セット搭載。

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Chevrolet WA, 30-cwt, 4x2(ボフォース37mm対戦車砲搭載)

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Ford F30, 30-cwt, 4x4(ボフォース37mm対戦車砲搭載)

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Chevrolet 1533x2, 30-cwt, 4x2(ブレダ 20mm 対戦車/対空砲搭載)

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”R1"巡視隊のシボレー。無線で通信しているところ。無線機はここに収められています。

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手前にあるのはサンコンパスです。磁気コンパスは車両の影響を受けるので太陽が頼りだそうです。

航空機

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支援航空機 WACO ZCG-7(1942年9月 カイロ病院への搬送を待つLRDGの負傷兵)

関連動画

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LRDG 関連のプラモデル

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関連記事

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LRDG

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SAS

写真集・資料・DVD

脚注・コメント

*1:SAS空挺部隊という名称が付いていますがイギリス空軍の所属ではなく、イギリス陸軍所属の特殊部隊のひとつで、現在の世界各国に置かれている特殊部隊の先駆けともいうべき存在です。

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SASの一部隊(1943年1月頃、北アフリカにて撮影)


レッドボール急行( Red Ball Express )

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レッドボール急行とは

レッドボール急行Red Ball Express )とは、大戦後期(ノルマンディー上陸後)に連合軍によって構築された巨大な輸送車列システムです。レッドボール急行の車両には赤い丸いロゴマークが付いているので一目でわかります。

レッドボール急行は連合軍への補給のため、1944 年 8 月 25 日からアントワープ港湾施設が開港された 11 月 16 日までの 83 日間、ノルマンディー上陸作戦が行われた海岸からヨーロッパを走り抜けました。最盛時には 5,958 輌の車輌が運用され、1日あたり約 12,500t の補給品が輸送されたといわれています。なお、レッドボール急行のドライバーの 75% が黒人でした。

1944年10月10日、フランスの前線地域への物資の配送中のレッドボール急行の車列。

1944年9月、ベルギーのリエージュで、前線部隊に向かう食料をトラックに積む第 4185 Quartermaster Service Company (補給サービス中隊) の兵士

ジェリ缶を積載中のレッドボール急行のクルー。

チャールズ・ウォーターハウス作の「GANGWAY」と題されたレッドボール急行を描いた絵

民間人にレッド ボール 急行専用道路を使用しないよう警告したフランス語のポスター

レッド ボール急行のドライバーが付けていた袖パッチ。頭文字は「輸送隊」と「自動車輸送サービス」の意味。

H. デイモンによるレッドボール急行の路線地図

参考記事

レッドボール急行の詳細については下記のウェブサイトがたいへん参考になります。

web.archive.org

archive.org

その他の参考記事

www.nationalww2museum.org

www.armyupress.army.mil

www.dav.org

www.historynet.com

www.fdmuseum.org

www.nww2m.com

en.wikipedia.org

参考動画

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www.youtube.com

各種メディア(映画、ドラマ、他)

TVドラマ「コンバット」のエピソード "Nightmare on the Red Ball Run"

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映画 "Red Ball Express"(邦題:レッドボール作戦、1952年制作)

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en.wikipedia.org

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DVD・書籍

プラモデル

【映画】「Theirs Is the Glory(邦題:第一空挺兵団)」1946年公開/イギリス製作

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「Theirs Is the Glory(邦題:第一空挺兵団)」とは

Theirs Is the Glory(邦題:第一空挺兵団)」は第二次大戦末期に西欧戦域で実施されたマーケット・ガーデン作戦をテーマに扱ったイギリス製作の映画で、第二次世界大戦終結の翌年(1946 年 8 月 15 日)に公開されました。

同じ題材を映画化したものとしては、1977 年公開の映画「A Bridge Too Far(邦題:遠すぎた橋、原作:コーネリアス・ライアン)」がありますが、「第一空挺兵団」が「遠すぎた橋」と違うのは、アルンヘム攻防にポイントを絞ることで惨敗に終わったこの無謀な作戦を美化することなくありのままにドキュメンタリーとして製作している点です。

また、「第一空挺兵団」には当時この作戦に参加していた兵士やオランダ市民の協力者たちが出演しています。「遠すぎた橋」がロバート・レッドフォードジーン・ハックマンローレンス・オリヴィエエリオット・グールドマイケル・ケインダーク・ボガードショーン・コネリーアンソニー・ホプキンス、マクシミリアン・シェルといった名優をこれでもか・・・とばかりに使っているのとは対照的です。*1

マニアの見所

第一空挺兵団」に登場する兵器はすべて第二次世界大戦で使われていた本物です。イギリス軍の車両や火砲だけでなく、キングタイガーやパンサーなどのドイツ車両も実物が使われています。劇中でキングタイガーが炎上しているシーンには思わず「うわっ、もったいない・・・」と叫んでしまいました(苦笑)。

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劇中で登場するパンサーD型。

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炎上するキングタイガー。

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17ポンド対戦車砲の背後を 75mm Pack Howitzer を牽引した英国空挺部隊仕様のジープが通り過ぎていくシーン。

関連リンク

「第一空挺兵団(原題:Theirs Is the Glory)」

Youtube で HD 版(字幕なし)を鑑賞することができます。

www.youtube.com

メイキング的な動画も観られます。

www.youtube.com

関連記事を下記の各サイトで読むことができます。

www.paradata.org.uk

en.wikipedia.org

遠すぎた橋(原題:A Bridge Too Far」)

Youtube で HD 版(字幕なし)を鑑賞することができます。

www.youtube.com

予告編です。

www.youtube.com

Wikipedia で関連記事を読むことができます。

ja.wikipedia.org

マーケット・ガーデン作戦について

マーケット・ガーデン作戦」とは、当時ドイツ占領下にあったオランダを奪還するために、ルート上の河川にかかる橋梁の確保を空挺部隊第一空挺軍、3個空挺師団基幹)で行う「マーケット作戦」と、その橋を通って機甲部隊(英第30軍団、3個師団基幹)が侵攻する「ガーデン作戦」の2つの作戦から構成されていました。

主要な降下地点は、アイントホーフェンナイメーヘンアルンヘム(アーネムの3か所で、アイントホーフェンには米第101空挺師団ナイメーヘンには米第82空挺師団アルンヘム(アーネムには英第1空挺師団ポーランド第一空挺旅団がそれぞれ降下しました。

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降下兵力が3万人におよぶ史上最大の空挺降下作戦であり、「圧倒的な兵力を投入して勝てる戦しかしないバーナード・モントゴメリー元帥のお得意の作戦でしたが、最後の要衝であるアルンヘム(アーネムには再編成中のドイツ装甲師団第2SS装甲軍団)が駐留しており、英第1空挺師団ポーランド第一空挺旅団は 9 日間の激闘の末大損害 *2 を被って機甲部隊の到着を待たずして作戦は惨敗に終わりました。*3

なお、マーケット・ガーデン作戦の詳細については WIkipedia の記事が比較的コンパクトにまとまっていて参考になると思います。

ja.wikipedia.org

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脚注・コメント

*1:惜しむらくは、これだけのオールスターキャストを使いこなすだけの能力がリチャード・アッテンボロー監督になかったことです。そのため作品としての評価も芳しくありません。

*2:英第1空挺師団 10,000 名のうち脱出できたのはわずか 2,000名、作戦全体で 12,873 名の戦傷・戦死者を出しています。

*3:モントゴメリー元帥はマーケット・ガーデン作戦を「90%成功した」と宣っております。これだけの大兵力を投入して壊滅的な大損害を出しておきながら「十分な航空機、地上兵力、そして遂行するのに十分な資材が与えられていたなら成功していたであろう。」とまで言い切っています。名将ロンメル猛将パットンへの対抗上「国策」として祀り上げられた迷将モントゴメリーの無能さを物語るエピソードではあります。